救援連絡センター財政強化のお願い

常日頃からの救援連絡センターの活動に対するご理解と協力にあらためて感謝します。
救援連絡センターが設立された1969年3月から、47年目の新年2016年が始まりました。
救援連絡センターは、1970年代、安保・沖縄・学園諸闘争への警察権力による弾圧に対する反弾圧救援運動の昂揚の中から生み出されてきた大衆的反弾圧団体です。「2015年安保」とも呼称されている、安倍自民党・公明党内閣による「集団的自衛権」行使容認といった戦争法案の強行は、昨年8~9月国会前での圧倒的な人々の怒りの爆発を呼び起こし、国会前と周辺、永田町一帯は、かつての60年安保、70年安保闘争を想起させるような事態になっています。
昨年秋、安倍自公内閣は、10月内閣改造を行ないながら、臨時国会も開けない事態に追い込まれました。一昨年、秘密保護法制を強行し、昨年の国会では盗聴対象拡大、司法取引捜査の合法化、といった刑事訴訟法等の改正案が参議院に「継続」になったまま、今年1月4日開会された第190通常国会に引き継がれています。他方で、沖縄・辺野古新米軍基地の建設を、沖縄県民の意思を無視して強行し、全国各地の原発再稼働を強行しようとしています。
かつてに比べれば、逮捕者の数こそ圧倒的に少なくなったとはいえ、こうした戦争と弾圧の激化の中で、03-3591-1301(ゴクイリイミオーイ)の役割は、増々重要になっています。
昨年一年間、救援連絡センターの財政は、極めて逼迫し、事務局員の活動費の遅配、欠配も続いています。あらためて、皆さんに以下の財政強化方針に協力いただくようお願いをする次第です。

第一 2016年、今年もあらためて、各地域、職場、単位からの一般カンパをお願いします。

第二 協力会員、『救援』定期購読者の拡大に協力をお願いします。
協力会費 (一口・毎月1000円×12=年間12000円、購読料も含みます。)
購読料  (一部300円・年間12号分で第三種開封郵送料こみで4500円、密封5000円)

第三 「強化基金」への協力をお願いします。
強化基金(毎月3000円×30口=9万円 目標)
事務局員4人目の「活動費」の確保と不足分の補充を目的にしています。

2016年 1月   救援連絡センター運営委員会
代表      足立 昌勝
代表弁護士  葉山 岳夫
事務局長   山中 幸男
運営委員   長谷川英憲
同        三角  忠

止めろ!共謀罪   救援連絡センター新代表 足立昌勝さんの就任を祝う集いのご案内

救援連絡センターは、足立昌勝さんを新代表にお願いすることを運営委員会において決定しました。つきましては、下記の日時・場所で足立昌勝新代表の就任を祝う集いを開催したく思いますので、万障お繰り合わせのうえ、ご出席いただきますようよろしくお願いします。

救援連絡センターは、1969年3月発足以来、旧世話人会から現運営委員会に改組して、代表には、故春日庄次郎氏、故水戸巌氏、故浅田光輝氏、佐藤昭夫氏らにお願いしてきた歴史を有しながら、今回、7年余に及ぶ代表不在の期間を克服し、足立昌勝先生に代表就任をお願いし、受けて頂きました。2016年1月、救援連絡センターは、47年目の年を迎えています。

足立昌勝先生(関東学院大学名誉教授)の思いの一端は、2013年7月13日の「古希祝賀記念論文集出版を記念する会」での「挨拶」において「今後とも、『理論と実践の一致』をテーマに、悪法反対運動を進めていく所存であります。」と述べていることでも明確であります。足立先生には運営委員をお願いし、今回、代表就任に至った点は、昨年11月に発生したパリ一斉襲撃事件を契機に高まっている「共謀罪」新設策動に対する反撃のために、時宜を得た配剤だと自負しています。前述の会の場において、「内諾」を得た上で、翌年退官後、(2014年)12月の運営委員会で正式に提案し、昨年一年間をかけて、実現したものです。一昨年、昨年は、安倍自民党・公明党内閣の下で、秘密保護法制の強行成立、盗聴対象の拡大と司法取引を合法化する「刑事訴訟法等改正案」が国会上程、他方で、集団的自衛権の行使を容認する戦争法案の強行成立と沖縄辺野古米軍新基地の建設強行といった、まさに抜き差しならない事態にあると思います。

今年は、1月4日から、第160通常国会が始まっています。足立昌勝さんの救援連絡センター新代表就任を心ある皆さんと共に祝う集いにおいて、あらためて、闘う意思一致の場としていきたいと思います。

(事務局長 山中幸男)

 

 

止めろ!共謀罪救援連絡センター新代表 足立昌勝さんの就任を祝う集い

日時 2016年 1月25日(月) 午後6時~8時半

会費 2000円

場所 連合会館(旧総評会館) 201号集会室内

「パリ地域6カ所同時襲撃事件」―今、問われるべきこととは何か?    鵜飼 哲(一橋大学教員)

11月23日、フランスの首都パリとその郊外で計六カ所が同時に襲撃され、死者は130名、負傷者は350名を超えた。21世紀に入ってからヨーロッパで起きた同種の出来事としては、2004年3月11日、スペインの首都マドリード駅頭の爆発で191名が亡くなって以来の規模の大量殺人となった。同じ時期にはイギリスの首都ロンドンでも、2005 年7月7日、ほぼ同時に四カ所で爆発が起き、56名の死者が出ている。ここで想起しなければならないことは、この時期スペインとイギリスが、アメリカとともに、イラク戦争に参加していたことである。
今回なぜフランスが狙われたのかという問いに対して、今の段階で十分な回答を示すことは難しい。この同時襲撃の実行主体として声明を発した「イスラーム国」の登場は、現在のイラク、シリア、ひいては中東全域の地政学的条件の錯綜のため、その経緯を正確に把握することは容易ではない。また今回の声明に、実行の計画主体でなければ知り得ない情報は何も含まれていない。1月のシャルリ・エブド社襲撃事件ですでに激しく動揺しているフランス社会に、さらなる打撃を加えることで、ある方向にこの国を動かすこと、それがどの国、どのような勢力の利益になるのかはかならずしも自明ではない。ひとつだけ明らかなことは、今回の事件が、現在のフランスが、2004、5年のスペイン、イギリスと同じく、中東・アフリカのいくつもの地域で軍事作戦を展開していることと、無関係ではありえないということである。
筆者は今年の3月末までパリ10区に住んでいた。今回襲撃を受けたカフェ「カリヨン」、レストラン「プティ・カンボッジ」は、当時の住まいから徒歩10分の距離にある。共和国広場から東に向かうサン=マルタン運河沿いのこの地区は、夏は河岸が人で埋まる人気のスポットであり、「ボボ」と呼ばれる新興若年富裕層や観光客で賑わうエリアの北限であるとともに、多様な民族的出自の人々の混住が市内でもっとも進んだ諸地区にも隣接している。トルコ人、クルド人が多く住むサン=ドニ地区、アフリカ人のコミュニティが定着したシャトー・ドー地区、ロンドンとの交通の便のためにインド人、スリランカ人中心の町となった北駅および東駅の周辺、アラブ系、ユダヤ系の人々が長く共存し、ヴェトナム人、中国人の人口も増加してきたベルヴィル地区からも遠くない。もっとも多くの人が殺されたコンサート会場バタクランは、ポピュラー音楽が戒律にもとるものとして「断罪」されたのだろう。フランスとドイツのサッカー親善試合が行われていたサン=ドニ市のスタード・ド・フランスは、観戦中の共和国大統領が象徴的標的だったと思われる。それに対し10区、11区では、部分的に実現されつつある多民族共生社会が攻撃されたのではないだろうか。
1月のシャルリ・エブド襲撃事件には前史があった。同紙によるイスラームの預言者の風刺画の掲載は、フランスのムスリムを代表する機関であるパリ大モスクからの告訴を受け、裁判の結果、2007年3月、風刺新聞社側が無罪となる司法判断が下されていた。編集委員等の殺害の実行者たちが、モスク側の敗訴というこの結果を受けて、「預言者の復讐」を誓ったことは想像に難くない。その意味でこの襲撃は、政治的である以前に、宗教的、社会的、文化的な事件だったと言えるだろう。それに対し今回のパリ地域六カ所同時襲撃事件は、その規模と無差別性において、ある企図のもとに周到に計画、遂行された作戦行動であり、組織的、政治的性格が強く感じられる。
フランスは戦争中の国である。1月の事件以前から鉄道の主要駅では、迷彩服の兵士たちが二人一組で、つねに機関銃を手に巡視活動を行っていた。兵士たちの存在は通行人に、自分たちが守られているという安心感以上に、いつ何が起きてもおかしくないという不安を感じさせていた。欧州議会選で極右政党・国民戦線が躍進した2014年のフランスには、災厄の予感が、日常の生活感覚のなかに、すでに耐え難いほど広がっていたのである。
2011年3月、フランスは国連決議1973を根拠に、イタリア、イギリス、アメリカとともにリビアに介入し、指導者カダフィの殺害に至る政権転覆を強行した。注意すべきは、この軍事作戦が、米、英以上に仏、伊によって主導されたことである。2012年5月、社会党の候補フランソワ・オランドが大統領に当選、内政、外交ともに、サルコジ時代の悪政が、多少なりとも是正されることが期待された。しかしこの期待は残酷に裏切られ、就任後1年の間にオランドの人気が回復したのは、2013年1月、マリの内戦に介入したときだけだった。この時オランドは「テロリストを破壊する」という戦争目的を広言し、フランスはこうして、アフガニスタンとイラクの失敗以降、米英がもはや使わなくなった「対テロリズム戦争」のレトリックに、いわば一周遅れで訴えるようになったのである。
無為に終止したエロー内閣の後を継いだヴァルス内閣は、就任早々ネオリベラリズム路線を鮮明にし、ブルターニュのノートル・ダム・デ・ランド空港建設反対運動など、エコロジー系の地域闘争にとりわけ激しい敵意を向けた。今回の事件後の緊急令によって、空港反対闘争の中心的な活動家3名が居住地指定処分を受け、COP21開催に対する抗議行動に参加するためパリに移動する自由を奪われた。現在のフランスで「テロリスト」という言葉が使われるとき、イスラーム主義的な「聖戦」派だけが狙われているのではない。このタイプの予防弾圧は、今後いっそう深刻になることが予測される。
シリア以前にフランスは、リビア、マリ、中央アフリカと、アフリカでの軍事活動にのめり込んでいた。そして昨年9月、フランス人登山家がアルジェリアのオレス山中で「イスラーム国」を名乗る集団に殺害された後、イラクにおける対「イスラーム国」空爆作戦への参加を決定したのである。しかし、シリアの旧宗主国フランスは、この間一貫してアサド政権の退陣を要求してきたため、シリアの「イスラーム国」支配地域への空爆には及び腰だった。それが今年九月、二万人のシリア人難民受け入れ方針の公表と同時に、難民の「発生源」を叩くという口実で、シリア空爆に踏み切ったのである。この決定について、政府内に意見の不一致があることを見透かされ、今回の事件を招いた可能性は否定できない。
2003年のイラク戦争開戦前夜、フランスが国連を舞台に精力的に展開した戦争反対の意志表示を思い出すなら、10年あまり後にこの国が、なぜここまで来てしまったのか、いくつもの疑問が浮かび上がる。国内では公教育におけるヴェール着用禁止法の制定(2004年)、郊外における若者の叛乱に対する弾圧(2005年)とムスリム系市民への抑圧政策が強化され、中東政策ではサルコジ政権下で親イスラエル路線への転換がなされ(2007年)、2009年、フランスは43年ぶりに北大西洋条約機構(NATO)に復帰する。ただでさえ日常的な差別にさらされ、平均の3倍を超える失業に苦悩するアラブ、アフリカ系の移民やその2世、3世が、いっそう疎外感を深めざるをえない方向に、この国ははっきり舵を切ったのである。2010年代の軍事介入路線は、以上のような内外の一連の政策転換の延長上に出てきたものである。今回の大規模殺戮にどんな政治的目的があったにせよ、フランスの国家および社会の急激な変化がはらむ社会的かつ地政学的な矛盾が、意図的に、鋭く衝かれたことは間違いないだろう。
日本の民衆運動にとって重要な点は、フランスのNATO復帰が、安倍内閣の日本とフランスの、急速な接近の前提となっていることである。従来国連の常任理事国は日本に対し、米英が支持、中ロが反対という構図のなかで、フランスはキャスティングボートを握っていた。フランスのNATO復帰によってこのバランスは崩れ、核兵器保有国にして原発大国のフランスと日本の外交関係は福島原発事故を契機に急速に変質し、いまや国際政治上の重要なパートナーシップを形成しつつある。
日本を訪問したヴァルスは10月3日、安倍に対し、来たるべき国連改革において日本の常任理事国入りを支持すると明言した。旧植民地帝国同士のこの友好関係の深化には、マリ介入の際フランスから自衛隊の派遣要請があったことからも明らかなように、すでに軍事的次元が含まれている。現在のグローバルな帝国主義的軍事再編のなかでは、集団的自衛権の問題を日米関係に限定して捉えるだけでは決定的に不十分である。米国の戦争政策に追随するばかりでなく、独自の帝国主義的利害にもとづいて、国連政治上の実績を積み上げるために自衛隊を戦地に派遣することが、安倍内閣の政治日程には、すでに組み込まれていると考えるべきだろう。
3ヶ月に延長された緊急令に対し、フランスの民衆運動は、「難民歓迎デモ」(11月22日)、「COP21に対抗する人間の鎖」(11月29日)を敢行し、多くの逮捕者を出しながら、力強い抵抗を開始している。私たちもまた、米英仏のシリア空爆に反対し、日本の加担を許さない国際主義の闘いを、緊急に組織する作業に取りかからなければならない。

裁判のご案内

2013年12月6日、秘密保護法の強行採決に抗議して参院議場に靴を投げ、威力業務妨害容疑で逮捕起訴されたAさんの控訴審判決が15日午後、東京高裁であります。

 

Aさんご本人から、下記の案内がありました。お時間のある方、ぜひ裁判傍聴にお越しください。

 

いつもありがとうございます。Aです。

2年前の126日、秘密保護法強行採決に際し、参議院本会議場に一足の抗議の靴が飛びました。

投げた私は威力業務妨害で逮捕、起訴され、一審で有罪判決を受けました。

明後日15() に控訴審判決です。

みなさんご参集ください。

1215()午後1時までに東京高裁(建物は地裁と同じ)傍聴整理券配布所にお集まりください。

開廷は1330分です。

429号法廷です。

判決のため、短時間で終わる予定です。

○報告集会

公判終了後、裏の弁護士会館1階ロビーにて報告集会をします。上告は考えていないため、これで判決確定となる予定です。

○その後、行ける方だけで日比谷公園のカフェに行き交流します。

暴走の度を加速させている安倍政権との闘いの一部です。

みなさんよろしくお願いいたします。

砂川秋まつり実行委員会よびかけ 12・27「辺野古に行くな!第四機動隊!」抗議アクション

いま辺野古では全国各地から機動隊が派遣され基地反対の市民を暴力的に排除弾圧しています。
私たちの地元、立川にある第四機動隊もそのひとつです。
彼らに自分たちが何をやっているのか、何に加担しているかを分かってほしいし、
本土が沖縄を暴力で屈服させる図式は、もうたくさんだ!!という気持で
第4機動隊の前でこの抗議アクションを行います。
ぜひ一緒に声をあげましょう。

日時:12月27日(日)
12時 立川市曙一丁目公園集合(立川駅北口5分)http://www.mapfan.com/spotdetail.cgi?SPOTCODE=S0HRKX36
⇒15分ぐらい歩いて機動隊前まで行って抗議
13時30分には終了
⇒余力があれば、その後立川駅北口で街宣します。

※プラカード、横断幕、メッセージボードなどご持参下さい。自分で表現しよう!
※トラメガ、楽器など大歓迎!機動隊員に「辺野古にいくな!」の大きな声を届けよう!

★注意!雨天中止です。延期した場合はまた日程をお知らせします。

【呼びかけ】砂川秋まつり実行委員会 sunagawaakimatsuri@gmail.com
FB、ツイッターもあります。

☆「国会突入」を考えるーー「「跳躍」の運動史」序説 松平耕一

 雨の日がずいぶん多かった気がする。初夏から初秋にかけて、安全保障関連法制定に反対する国会前行動に足繁く参加した。傘を持たない日の夜に、パラパラと降り出す俄雨に閉口した。また、ザアザアの雨の日は、どうせ人も少ないだろうと行動に出向くのが億劫になった。常連の参加者たちは、レインコートの完全装備でデモに行く。今回の一連の行動では、自分も、十代のころ使っていた、埃の被ったポンチョをロフトの奥から引きずりだした。つばのせり出た黒いキャップを被り、ポンチョを重ねた。人が少ない道では傘をさし、混雑した行動の最中ではその折り畳み傘を鞄にしまう。iPhoneとビデオカメラとハンドマイクを濡れないよう、持ち替えやすいように装備する。それにしても、今年の安倍政権は雨に救われたのじゃないかと思ったりした。
 参院本会議でいよいよ強行採決がなされるという、九月一八日の金曜日も雨だった。その夜、翌朝まで抗議するぞという声も聞いたが、私は二二時くらいには国会前を引き上げ、友達と市ヶ谷で飲み屋に入った。自然に六〇年安保の話になる。「六〇年安保の強行採決の日も、雨が降りしきる中での切ない抗議だったらしいよ」と。ビールを何杯か重ねたところで、なんとなく、自分一人だけでも、国会に戻ろうかという気分になった。意外に、裏門とかからなら、国会へと突入できるのではなかろうか? そのまま正門へと突き抜けて帰ってきてしまえばいい。私は、国会内部へと私を招く声が聞こえている気がした。九月一六日に、一三人の逮捕者が出ていたことと関係があるかもしれない。
 門扉というのは一つの境を形成する。門の内部と外部には、別のルールが流れる。門の内外で、別の法に支配されてあるのは不思議なことだ。もしも知らない人が、いきなり扉を開けて私の部屋に上がってきたら、私は仰天するし、怒りにかられるだろう。施設管理権というものが、一般の私有地では働き、外部からの侵入者を、この法をもって排除する。
 しかし、国会の内部とは一体何なのか? 私はそこから排除されていて、一方的な観客にならざるをえない。公的な空間にて、私個人の、生活と人生を左右する議論がルールを守らずに、理不尽で非論理的な方便にてなされているのなら、ちょっと怒鳴り込みに上がりたくなるのも人情であろう。
 私は国会突入をテーマに毎回の国会前行動に参加した。警察の規制線をいかに後退させていくかが私にとっての関心事である。人が多いときに、荒れている場を探す。警察と揉めている人がいる空間では「警察帰れ」「道を開けろ!」「警察おかしいだろ!」「青信号なのに何で歩行者を歩かせないんだ!」「過剰警備反対!」と叫びまくる。参加者が一緒になってコールをしてくれる、手応えのあるときも多かった。
 多くの逮捕者が出た大規模弾圧の起こった、九月一六日は鮮明な印象に残っている。九月第三週は連日、マスコミが押し寄せその人垣が凄かった。三一一以降に始まった脱原発運動が、当初はまったく新聞でもテレビでも報道されなかったことを思えば、隔世の感がある。撮影のためのライトが立ち並び煌々としていた。
 無機質な白い光に照らし出されて、浮かび上がる、警察に激しく押される人々の群れ。蠢き、叫び声。規制線をさげないように守勢にまわっていた権力が、不意に一転して攻勢に出て、私とスクラムを組んでいた一人の人が消えた。あるべきものがなくなった感触が私の身体に残り、私は総毛立った。内部と外部を隔てる頑強な檻が私を飲み込もうとしているのを感じ、怖くなり私はその場を逃げ出した。「仲間を返せ」という叫び声が繰り返された…。一六日の大規模弾圧である。
 一三人の逮捕者というのは、国会前行動では近年では初めての出来事だろう。同種のものとしては、二〇一一年九月一一日の新宿での「原発やめろデモ!」の一二人逮捕事件が思い起こされる。逮捕者が特定セクトの人間に偏ったわけではないという点で、二つの事件には類似性がある。この種の大規模弾圧の起こる状況には条件がありそうだ。一つは、民衆の広範な怒りが激しくたまっていること。もう一つは、警察側が、完全に、何人でも逮捕するつもりで当日の警備にのぞんでその場に出向いてきているということだ。
 関東圏の運動での、三一一以降の大規模弾圧の歴史といったものを考えてみたい。二〇一一年の東京での街頭行動を代表するであろう「原発やめろデモ!」は、六月一一日の新宿デモが成功のモデルケースとしてあった。デモ終了地点である新宿東口駅前広場を占拠状態にし、大変大がかりなお祭り騒ぎをもたらした。これを繰り返そうとしたのが同年九月一一日の「原発やめろデモ!」であったが、絶対に繰り返させまいとした警察側に激しく弾圧されることになった。このデモは、私自身も少し準備を手伝っていたが、警察側とのデモコースについての折衝が難航し、権力が相当な強硬姿勢で警戒にあたっている不穏な感触があった。また、参加者側が、警察側に対して苛々ピリピリしている雰囲気も感じられた。参加者たちのおさまりきらない怒りと、警察の強硬な姿勢から、些細な事実を理由とした激烈な大規模弾圧が生じた。
 同様の状況は、ちょうど四年と少しを経過した、本年の九月第三週の安保法案反対行動においても起こっていたと思う。まず前段として、九月一四日の月曜の行動で、四万五千人と言われる参加者が集まることで、国会前道路の完全解放がなされた。警察車両は運転の途中で、徒歩の参加者たちに遮られて動きを止められたりもしていて、あちこちで車両の上に攀じ登られている始末だった。権力側は警備体制を見直ししたらしく、翌一五日からは断固とした姿勢で警備にあたるようになる。人々が集まり始めるより、ずっと早い時間から警察車両をぎりぎりまで敷き詰め警備をガチガチに固めた。九月一六日は、一四日と同様の規制線の突破を行おうとした参加者たちが、強硬な姿勢の警察に、全面的に弾圧されることになった。
 よく言われることであるが、ラディカルな行動というものは、不意打ちの形でなら成功しやすい。たとえば、九月一六日の新横浜で行われた地方公聴会では、数百人が路上に飛び出し車を遮り横たわるシットイン抗議が行なわれた。暴動状態だったとも言われる行動だったにもかかわらず、逮捕者が出ていない。弾圧にあたったのが神奈川県警だったからということもあるだろうが、権力側は、前例がなく事前に予測できない行動では、逮捕を行ないづらいとも言える。
 路上の解放ということで言うと、二〇一二年、大飯原発再稼働を二日後に控えた六月二九日の官邸前車道の完全決壊が成功のモデルとしてあった。そのことを念頭に置いた上で、一五年の安保法案反対行動では、かなり早い段階から、八月三〇日にたくさんの人を集めて、国会前車道で決壊を起こすことが目標とされていた。六月の段階で、毎週金曜の行動にて、六〇年安保闘争を目標とした数字で、「三〇万分の一になれ」「友達を連れてきて下さい」と繰り返しアナウンスされていた。その成果として三〇日には「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」の発表によれば一二万人が集まり、国会前車道の解放が実現した。この三〇日を過ぎると、主催には少し気が抜けたような雰囲気も見受けられた。安保法案の成立がいよいよ迫った九月一四日は、関係者間でも事前に予測がつかない、平日月曜夜での、不意の車道完全解放が起こった。四万五千人でこれをやってしまったのもすごいことだ。
 今回の行動を振り返るにあたって、首都圏反原発連合について考えてみたい。二〇一二年に官邸前車道を決壊させた立役者である反原連が、「原発やめろデモ」への大規模弾圧の反省のもとに作られた組織であるということはしばしば言及されている。同団体の方針として、夜に騒音を出すことで迷惑になるということでの、二〇時での完全解散や、「官邸突入」を主張するものを弾圧するといった特徴があげられた。運動体内外で揉め事があると適宜警察に通報する。警察と連携を取り合い、「跳ねるやつを潰せ」の原理を持つ。無軌道な大衆の怒りをコントロールし、運動体としての規律を作り出すべく、スターリニズム的な課題を意識することで活動がスタートしている。行動の終了後、ゴミ一つ残さず掃除して帰るという、ファシズム的とも見える感性が誇られることもある。
 反原連については、小熊英二編著『原発を止める人々ー3・11から官邸前まで』(二〇一三年、文藝春秋)が詳しい。本書は二〇一一年から一三年にかけて、脱原発の行動に参加していた五〇人の人々の証言を蒐集していて大変な労作である。現代のデモの特徴を知る上で貴重な資料だ。小熊は反原連の統制的な側面を評価しつつ、「「3・11」以降の脱原発運動は、世界でも類例のない形態を実現させた。それは個々の当事者には見えていなかったかもしれない、多様な動きの連動の結果であり、大きな民意の表現だった。人々はいまだ、その奇跡を奇跡として自覚するほど、みずからの達成に慣れていない。そのことがはらむ可能性の深さに、彼らはまだ気づいていないのである」と手放しに絶賛している。
 本稿を書いている直近での、二〇一五年一一月六日金曜の反原連による官邸前行動は、すでに一七一回目にもなり、約千百人が集まったという。何年にもわたって毎週集まり続ける被災者の方たちの、切羽詰まった、しかしそれでも自身を律し、声を上げ続けることに集中する、狂おしい気持ちには頭が下がる。回数でも規模でも並大抵でない金曜官邸前行動は、もしかしたら、私たちにとって一生の課題になるかもしれず、私が死んだあとでも続き、参加者も増えていくかもしれない。
 しかしどうにも、国会前で数時間、アジ演説を聞き同じコールを繰り返し行ない、これを週毎に繰り返すというのが、個人的には苦役であり参加し難い。小熊の肯定する運動論は、ほとんど「労働としての運動」に見える。祝祭なき、蜂起なき、革命なき、ストイックな忍耐の運動で、「カフェイン抜きのコーヒー」のごときだ。もちろん、反原連のような努力と忍耐の街頭行動者からすれば、不意に入ってきた余所者の「跳ねる奴ら」に場を荒らされるのでは、たまったものではなかろう。しかし「統制」と「跳躍」という軸について考えたとき、小熊の運動史は「「統制」の運動史」といったものだが、私は別に、「「跳躍」の運動史」を提示しておきたいと思う。
 二〇一二年夏の官邸前行動ということで言えば、興味深かったこととして、「ざらすとろ首相官邸前直訴事件」があった。大飯原発がいよいよ再稼働するという当日、とある男性が首相官邸前を訪問した。野田首相に会いに来たので通して欲しい、取り次いで欲しいと、彼を遮る警官に対し、歩道で座り込み交渉を続けた。福島第一原子力発電所四号機は現在極めて危険な状況にあり、その上大飯原発も再稼働してしまうし、野田首相に会えないなら、みんなは死んでしまうしかないかもしれないし、それなら…とアピールし、ナイフを取り出した。そしてその場で、大勢の警察に取り巻かれて、銃刀法違反の容疑で逮捕された。ざらすとろは、彼を通すまいとする警察に対し、「あなたたちはカフカの小説に出てくる門番のようだね」と説得を繰り返していたことが、私には印象深かった。
 もっとも、首相に会わせろ、国会に入れさせろという主張は、礼儀正しく頼めば可能なものなのかもしれない。実際、反原連は、二〇一二年八月二二日に野田首相との面会を行ない、主張の申し入れをしている。また、SEALDsの奥田愛基は九月一五日に参議院特別委員会公聴会に参加し意見を述べている。それらが画期的だとする意見も分からなくはない。だが結果としては、それぞれ、反原発派の意見を聞き入れられたふりをされ、安保法案反対の運動を黙らせられ、代議制民主主義の度量の深さと見せつけられただけではなかろうか。門扉の中に招かれたとしても、「まあまあ」と宥められるためだけの茶番に終わるのなら、やはり恨みつらみが残るであろう。
 私たちは、怒りを抱えて首相官邸の前へ、国会の前へと押し寄せる。そして、門にたたずむ警察に追い返される。もしもそれでも中へ入ろうとしたとき、結果、その門扉が、留置所への、刑務所への門扉と繋がっていることを知るかもしれない。だが、緊張で張り詰め言葉をなくし、怒りを抱えて門扉へと飛び込もうとする跳躍の衝動に、私は「自由」を求める決断を見る。マスコミに取り上げられない、国会にて代表されえない、意識においては忌避されるが、無意識においては望まれるかもしれない衝動に、むしろ「一般意志」と呼びうるものを私は感じる。
 ラディカルへと走る大衆の行動と、自制させ統制しようとする力と、二つの力のせめぎ合いを、三一一以降の運動の中に、私たちは認めることができる。翻って考えてみるに、人間の各個人は、衝動と抑制の二つの相反する要素を相互にあわせもつ。元来、衝動だけの人間も抑制だけの人間もいない。私たちは暴れ出そうとする右手と、それを止めようとする左手を持つ、衝動と抑制の二重体なのである。怒りとともに無意識に「邪王炎殺黒龍波」とかいった名称の必殺技をはなってしまうかもしれない右手があり、同時に、それに手錠をかけておく左手がある。私たちを抑制し日常生活の中に閉じ込めてあるのは、私たち自身だ。
 そしてさらに、個人においてのみならず、組織においても、衝動と抑制の二面性が存在する。つまり、運動史というものを、衝動と抑制、二つの駆け引きのダイナミズムとして綴ることができる。私は本稿において、三一一以降の国会前行動の「跳躍の運動史」を素描し、歴史を概括しつつ、その運動の獲得目標を提案したいのだ。
 二〇一一年以降の関東圏の運動史は衝動と抑制の間で、弁証法的発展を遂げてきている。三一一のあった二〇一一年は、「原発やめろデモ」における「見る前に飛べ」の如きラディカリズムの発露があった。二〇一二年は揺り戻しとして、反原連におけるスターリニズム的な抑制の運動があったが、これも一過的なものだ。逆説的な話だが、国家による弾圧の激しさは、民衆のラディカリズムの度合いを測る鏡ともなる。
 二〇一三年に高潮に達した反ヘイトスピーチ運動では、九月八日にはレイシズムデモに抵抗して新大久保路上でのシットインが行なわれた。シットインはその後もあちこちで繰り返し試みられた。カウンター界隈では、いろいろな手法でぎりぎりのところまで踏み込みレイシズムと対決し、逮捕事件が繰り返し起こっている。また、二〇一三年一二月には秘密保護法強行採決反対行動にて、国会傍聴者の「靴投げ」弾圧事件があった。二〇一四年では、集団的自衛権反対行動の中で、新宿での焼身自殺未遂事件と、日比谷公園での焼身自殺事件が起こった。二〇一五年では、米軍の辺野古基地移設反対を訴えた国会包囲行動が、一月、五月、九月と行われたが、それぞれ八千人、一万二千人、二万二千人と、回を増すごとに参加者が増えた。これらの諸行動には、「抑制」の枠に収まりきらない、大衆のラディカリズムが顕示されていて、フツフツと湧き上がる人々の怒りが見てとれる。二〇一三年、一四年の「衝動」の経験は、二〇一五年八月、九月の安保法案反対行動のラディカリズムへと流れ込んでいる。
 二〇一三年の秘密法反対行動については、一つ附言しておきたい。安倍政権が参議院において秘密保護法案を強行採決したことに際して抗議し、国会内で靴を投げたAさんは起訴をされて、未だに控訴審中だ。秘密法を成立させた審議過程に問題があることを訴え全面的に争っていて、とりわけ国会「突入」性の深い事件である。マスコミによるAさんの扱い方にも大きな問題があり、彼のやったことの意味の重さが慮られる。
 さらにもう一点言うと、Aさん逮捕の日、一二月六日の国会前行動では、二名の逮捕者が出ていた。この日は国会周辺で三万人の参加があり、正門直前にて逮捕者が一名出たのだが、主催はそのことをアナウンスせず誰も騒がなかった。私は現場を見ていたので、その場で「仲間を返せ」とコールしたのだが、乗ってくる人もいない。「特定秘密保護法反対」のコールを無機質に繰り返す、反弾圧意識のない参加者たちと、逮捕事件を知りながらも情報の共有化を行なわない主催の無感覚さはどうかと思った。行動の中で逮捕者が出てもダンマリを決め込むのは、危険だし不審でもある。逮捕者が出たことについて一切言及せず、救援を終えるというのは、この時だけに留まらず、関東圏の行動で繰り返されている。
 以上のことを踏まえてみるに、本年二〇一五年の安保法案反対国会前行動は、以下の点において評価すべきことがあったと思う。第一に救援を巡る対応について。九月一六日の大規模弾圧について、二四日に、主催の総がかり行動が不当逮捕事件を批判するむねの声明を公式に出した。行動の中で、内田雅敏弁護士がスピーチにて声明を読み上げた。反原連周りではまったく行われていなかったことであり、画期的である。また、逮捕者の解放時に主催は、仲間が返ってきましたという旨のツイートをしてもいる。二〇一一年の大規模弾圧に比べれば、救援がスムーズに行われもした。これらは大いに肯定すべきことだと思う。
 評価すべきことの第二のこととして、まとめてあげると、反原連による行動が、二〇時で終わるのに対し、反安保の国会前行動は二二時まで行なわれていたこと。また、前述の通り、「警察帰れ」といったアジテーションが、以前よりは受け入れられやすくなったこと。さらに、鉄柵撤去行動が常態化し普通のことになり、国会前車道の全車線解放を二回も成し遂げたこと。
 第三に、逮捕者への激励行動の参加者の広がりについても言及したい。九一六弾圧逮捕者への、中央署・品川署での激励行動は、彼らを心配する一〇〇名近くの人々が集まった。付け加えて振り返ってみると、九一六弾圧の先駆として、五月二八日に、戦争法案反対国会前集会の参加者三人が、経産省前にて逮捕されるという事件があった。この五二八経産省前弾圧でも、五月二九日の激励行動で、二〇〇名もの人が集まっている。救援の態勢ができていて、周知が即座に拡散できる情報網が整っていて、かつ行動への支持が相当にあるということでなければ、これだけの人を集めるのは難しい。今までの経過から見れば破格な出来事だ。
 今夏の安保法案反対行動の画期的な点を挙げてきた。もちろん、私はすべての衝動を無限定に肯定するわけではない。打算的な話であるが、「跳躍の行動」を試みるなら、救援の態勢のある条件で、世論の支持が集まりうる情勢で、行なった方がいいと思っている。
 個人的には、二〇〇一年に法政大学にて松本哉らが引き起こした「ボアソナードタワー事件」が、とにかくトラウマであった。当時、建設されたばかりだったボアソナードタワーにて、法政の清成忠男総長(当時)と奥島孝康総長(同上)が、大会社の社長を招きシンポジウムを開くという。これに対し、松本ら多数の黒ヘル集団が、シンポの会場に突入して、消化器を振りまきペイントボールを投げ「襲撃」した。結果、彼らのうちの計五人が起訴されている。
 当時の世情を振り返ると、九月一一日にアメリカ同時多発テロ事件があった。その一〇日後の九月二一日に、法政大学では、産学協同路線へと邁進し、大学の就職予備校化を、ネオリベ化を推進しようというセレモニーが行われようとしていた。これを破壊すべく突入を試みるのは、一つのロジックとして正しいとは思う。しかし、世論の支持が得られず、救援の態勢も整わない場での衝動的な行動は、どうにも悲惨な展開をもたらす。ボアソ事件の結果、関東圏のこの世代の黒ヘルは壊滅したとよく言われる。
 同じテリトリーである法政大学学生会館に所属していた私は、この事件に直面して、松本らの側ではなく、「統制」の側につく決断をした。このとき、私は、自分の手で、自分自身に手錠をかけてあることを意識した。以来十年間、私にとって衝動的な跳躍というものは、屈託の対象であった。そのこともあり、私は、半分くらいは、反原連のような統制の効いた行動への支持者である。だが、二〇一一年の三一一を境に、私は、自分で自分にかけた手錠を外すべきだと感じた。私は宗旨替えを行ない、統制と衝動のうち、衝動の側に組することに決めた。
 二〇一一年九月の「原発やめろデモ!」の大規模弾圧では、救援の方針を巡って関係者間で混乱が生じていた。未だに、救援会に関わったものどうしの間での、悪罵のしあいがネットで生じていて、実は現在進行形の問題である。このトラブルは、一つには松本哉の大衆的なキャラクターに起因してもいたと私は思う。松本がかつて引き起こした二〇〇一年九二一のボアソ事件への弾圧に際してもそうだったが、「完黙非転向」が正しいという意識は松本にはなく、救援にあたっての動きに統一性がない。理論を突き詰めるということに興味がなく、雑というか、やる気がないスキゾ的なアナキストの松本は、党を形成するようなパラノ的なタイプではなく、現代的ではあるが、大規模弾圧があると周囲を巻き込み自壊してしまう。反原連は、松本との運動の経験から、警察と適当に関係を作りつつ、絶対に逮捕者を出さない方針を選んだ。
 しかし「跳躍の運動史」にあっては、逮捕事件に際して、完黙非転向と、救援会により不当逮捕弾劾の声明を出すことが重視される。警察に妥協をせず、獄中闘争を続けるのが正しいという見解に理解が得られるよう、努力を続けていきたいところである。
 ともかく、私たちは、二〇一一年の「原発やめろデモ!」で、「言うこと聞くよなやつらじゃないぞ」と歌った。二〇一二年には、大飯原発再稼働反対行動の中で、「ナメられているにもほどがある」と歌った。そして、今回の行動では「本当に止める」がスローガンだった。しかし、その実態はどうか。二〇一二年一二月の第四六回衆院選では自民党が二九四議席を獲得し圧勝、安倍第二次内閣が発足。二〇一四年一二月の衆院選でも、再び与党が議席数の三分の二を維持し、長期政権化が決まった。さらに、安保法案成立後の現在、一時落ち込んでいた内閣支持率は再び上昇してきている。結局「言うことを聞かせられ」「ナメられ」「本当には止められず」に過ごしてきているのが現状ではないのか。
 二〇一四年には台湾で、学生たちによる立法院の占拠があった。彼らが非暴力の行動で、この行動を成し遂げたことは見習うべきことだ。占拠の行動に連携した「全国ロックアウト労働者戦線」という団体は「三つの夢想」というトピックをアピールしていた。いわく、「第一の夢想、もしも国会がなくなれば」「第二の夢想、もしもサービス貿易協定がなくなれば」「第三の夢想、もしも国家がなくなれば」。国会を成立させているものは何なのか、国家を成立させているものは何なのか、今一度問い直す思想は、日本においても必要だ。
 また、拠点に押しかけようとした歴史的事件として、六〇年安保闘争や、戦後の皇居前広場での、血のメーデー事件も参照点とできる。非合法活動時代の共産党や、六〇年安保におけるブントを鏡としつつ、現代の三一一以降の国会前行動において、可能にして効果のある運動体はどんなであるかを検討したいが、またの機会の課題である。
 繰り返すが、今夏のような、世論の支持を集められ、救援の態勢が準備できる情勢では、九一六のような跳躍の行動があっても良かろう。欲を言えば八月三〇日はもっと踏み込んだ行動をする最大のチャンスだったと思う。この日は覚悟のある集団が早い段階で国会正門前横断歩道まで辿り着き、全力で鉄柵の撤去に取り掛かっていれれば、国会議事堂の門扉を開けたはずだ。
 六〇年安保闘争時、人々は、国会の四方の道路を解放し、ジグザグデモでぐるぐると周りながら、構内へと突入しやすい場所を探したという。私たちにおいても、国会正門直前交差点と、国会を取り巻く四方の道路の完全解放もまた目標となるだろう。今夏の状況ではおそらく、蜂起をするにはまだ人数が足りていない。国会正門前南岸のスピーチエリアのアピール力に頼り過ぎてもいた。本来、複数の中心部が必要で、同時多発的に様々な方向から国会へと決起しなければならない。
 もしも今後、原発による放射能被害がさらに広がり、米軍基地が増加し、日本がいよいよ戦争するといった事態が起こるとなったらどうするか。国会へと、首相官邸へと、また別の某場所へと、突入し占拠する思想が必要かもしれない。その思想実験は、日本の民主主義と立憲主義を考えるうえで、もう一つの、オルタナティブな観点をもたらすはずだ。適当な獲得目標を思いつきであげれば、三千人の逮捕者の救援を行えるだけの仲間の形成と、世論の醸成に取り組みたいものである。私たちが自らにかけた手錠を自ら解き放ち、揃って右手を天に突き出し蜂起したとき、門扉は開かれ、天は裂け地が割れ雷が落ち、この世の全ては勦滅し、そして、迷妄の古き神話が終わり、まったく新しい存在史の時代が、始まらないとも限らないであろう。
(『情況』2015年12月号に掲載予定)

レイバーフェスタ2015「戦争vs文化」

12月19日(土)10.30~17.15(開場10.00)

東京・田町交通ビル6階ホール(JR田町駅「芝浦口」徒歩3分)

参加費 一般当日1500円
前売・予約・賛同人1300円
失業者・障害者(一律)1000円
学生・20歳以下 無料
予約・問合せ レイバーネット日本
TEL03-3530-8588 FAX03-3530-8578
メール予約 http://vpress.la.coocan.jp/yoyaku-festa.html
主催 レイバーフェスタ2015実行委員会(責任団体=レイバーネット日本)

〔プログラム〕12月19日(土)10.30~17.15

10:00 開場
<第一部>(午前の部は無料)
10:30 TVドキュメンタリー『川柳人 鶴彬』上映+トーク(枝川吉範さん)
11.45 公募川柳入賞作発表
12.00 休憩(60分・12.30正式受付開始)
<第二部>
13:00 主催者あいさつ
13:05 演劇『沈黙せよ』
13:40 音楽「歌おう世界のプロテストソング」
14:25 ブラック企業NO!
土屋トカチ『アリ地獄天国』(仮)上映+トーク(西村さん)
15.00 休憩(15分)
<第三部>
15:15 戦争する国NO!
ビデオプレス『鉄柵をこえて~戦争法案ドキュメント』(仮)上映+トーク(学生ハンストメンバーほか)
16:00 三分ビデオ15本一挙上映
17:00 フィナーレ
17.15 終了
18.00 別会場で「大交流会」(飲食代実費)


 

人権侵害を受けた人」がリンチされ続けるのはなぜなのか?  -9・16国会前弾圧から考える-

日時 12月6日(日)13時 開場

場所 フリーター全般労働組合会議室(渋谷区代々木4294西新宿ミノシマビル2F)
主催:戦争反対!916弾圧愛宕・高輪救援会 
いまさら言うまでもないことですが、不当逮捕は重大な人権侵害です。逮捕のみならず勾留・拘留においても公権力の違法な行使が横行し、被逮捕者は人権侵害を浴び続けます。一連の警察の違法な権力行使に抗議しやめさせなければなりません

にもかかわらず、獄外でも被弾圧者へのバッシングやアウティング、支援者に対する誹謗中傷が繰り返されています。私たちが救援に取り組んだ愛宕11号、高輪5号も例外ではありませんでした。

私たちは強い危惧を覚えています。

なぜ被害者がこれほどまでに貶められ攻撃されるのか、不用意にではなく意識的にそれを行う一部の動きを許さない社会的コンセンサスをどのように確立していくのか。みなさんとともに考えてみたいと思います。
ぜひ議論に参加して下さい。

2015年11月11日 戦争反対!916弾圧愛宕・高輪救援会

13時30分 開始
 916ドキュメント
916国会前の弾圧。そのとき、そしてその後に、人々は何を考えどう動いたのか。当事者と救援会が檻の内と外から人権侵害の実相を検証する。
14時30分 終了

14時45分 開始
 救援運動の原点とエッセンス

水戸喜世子さん(「子ども脱被ばく裁判」を支える会・西日本代表

1967年に10・8羽田救援会、69年3月に「救援連絡センター」を立ち上げ、84年まで事務局長を務める)他、ゲストを迎えて、救援運動の歴史・思想について考える。
16時00分 終了

③交流会

「新宿署違法捜査憤死事件」国賠訴訟を傍聴して下さい!

11月17日(火)13:30~ 東京地裁709号法廷
◇証人尋問
  菅原太吉(新宿警察署元生活安全課課長)
  立延哲夫(新宿警察署元署長)
  原田尚美(原告)
◇報告会のお知らせ
  答弁論終了後 18時30分まで
  弁護士会館5階 504会議室
  よろしくお願いします。
  詳しくは、
  新宿署違法捜査憤死事件 原田信助さんの国賠を支援する会 

青山正さんを迎えて えん罪野田事件の再審・無罪をめざす集い

11月7日(土)14時~
大田区消費者生活センター
(蒲田駅東口下車 区役所先)
参加費 500円
事件の概要
青山正さん救援会
再審申請してから
主任弁護士 和久田修
この頃の青山さん
青山さん・青山さんを救 援する関西市民の会
その他 DVD「僕、殺したんじゃねえもの」
*17時から同会場で交流会を開きます。
障害の故に犯人に仕立てられ、長い刑期を終えて出所した青山さんは、青山さんを救援する関西市民の会の支援を得ながら大阪で暮らしています。
救援会・野田事件再審弁護団などの並々ならぬご苦労によって、新証拠が整い、2014年7月14日、千葉地方裁判所松戸支部に再審申請を行いました。
青山さんの再審無実をめざす大田の会 代表 宮川龍二
連絡先
大田区仲六郷1・6・23・904 北村小夜
tel/fax:03-3731-2961