「パリ地域6カ所同時襲撃事件」―今、問われるべきこととは何か?    鵜飼 哲(一橋大学教員)

11月23日、フランスの首都パリとその郊外で計六カ所が同時に襲撃され、死者は130名、負傷者は350名を超えた。21世紀に入ってからヨーロッパで起きた同種の出来事としては、2004年3月11日、スペインの首都マドリード駅頭の爆発で191名が亡くなって以来の規模の大量殺人となった。同じ時期にはイギリスの首都ロンドンでも、2005 年7月7日、ほぼ同時に四カ所で爆発が起き、56名の死者が出ている。ここで想起しなければならないことは、この時期スペインとイギリスが、アメリカとともに、イラク戦争に参加していたことである。
今回なぜフランスが狙われたのかという問いに対して、今の段階で十分な回答を示すことは難しい。この同時襲撃の実行主体として声明を発した「イスラーム国」の登場は、現在のイラク、シリア、ひいては中東全域の地政学的条件の錯綜のため、その経緯を正確に把握することは容易ではない。また今回の声明に、実行の計画主体でなければ知り得ない情報は何も含まれていない。1月のシャルリ・エブド社襲撃事件ですでに激しく動揺しているフランス社会に、さらなる打撃を加えることで、ある方向にこの国を動かすこと、それがどの国、どのような勢力の利益になるのかはかならずしも自明ではない。ひとつだけ明らかなことは、今回の事件が、現在のフランスが、2004、5年のスペイン、イギリスと同じく、中東・アフリカのいくつもの地域で軍事作戦を展開していることと、無関係ではありえないということである。
筆者は今年の3月末までパリ10区に住んでいた。今回襲撃を受けたカフェ「カリヨン」、レストラン「プティ・カンボッジ」は、当時の住まいから徒歩10分の距離にある。共和国広場から東に向かうサン=マルタン運河沿いのこの地区は、夏は河岸が人で埋まる人気のスポットであり、「ボボ」と呼ばれる新興若年富裕層や観光客で賑わうエリアの北限であるとともに、多様な民族的出自の人々の混住が市内でもっとも進んだ諸地区にも隣接している。トルコ人、クルド人が多く住むサン=ドニ地区、アフリカ人のコミュニティが定着したシャトー・ドー地区、ロンドンとの交通の便のためにインド人、スリランカ人中心の町となった北駅および東駅の周辺、アラブ系、ユダヤ系の人々が長く共存し、ヴェトナム人、中国人の人口も増加してきたベルヴィル地区からも遠くない。もっとも多くの人が殺されたコンサート会場バタクランは、ポピュラー音楽が戒律にもとるものとして「断罪」されたのだろう。フランスとドイツのサッカー親善試合が行われていたサン=ドニ市のスタード・ド・フランスは、観戦中の共和国大統領が象徴的標的だったと思われる。それに対し10区、11区では、部分的に実現されつつある多民族共生社会が攻撃されたのではないだろうか。
1月のシャルリ・エブド襲撃事件には前史があった。同紙によるイスラームの預言者の風刺画の掲載は、フランスのムスリムを代表する機関であるパリ大モスクからの告訴を受け、裁判の結果、2007年3月、風刺新聞社側が無罪となる司法判断が下されていた。編集委員等の殺害の実行者たちが、モスク側の敗訴というこの結果を受けて、「預言者の復讐」を誓ったことは想像に難くない。その意味でこの襲撃は、政治的である以前に、宗教的、社会的、文化的な事件だったと言えるだろう。それに対し今回のパリ地域六カ所同時襲撃事件は、その規模と無差別性において、ある企図のもとに周到に計画、遂行された作戦行動であり、組織的、政治的性格が強く感じられる。
フランスは戦争中の国である。1月の事件以前から鉄道の主要駅では、迷彩服の兵士たちが二人一組で、つねに機関銃を手に巡視活動を行っていた。兵士たちの存在は通行人に、自分たちが守られているという安心感以上に、いつ何が起きてもおかしくないという不安を感じさせていた。欧州議会選で極右政党・国民戦線が躍進した2014年のフランスには、災厄の予感が、日常の生活感覚のなかに、すでに耐え難いほど広がっていたのである。
2011年3月、フランスは国連決議1973を根拠に、イタリア、イギリス、アメリカとともにリビアに介入し、指導者カダフィの殺害に至る政権転覆を強行した。注意すべきは、この軍事作戦が、米、英以上に仏、伊によって主導されたことである。2012年5月、社会党の候補フランソワ・オランドが大統領に当選、内政、外交ともに、サルコジ時代の悪政が、多少なりとも是正されることが期待された。しかしこの期待は残酷に裏切られ、就任後1年の間にオランドの人気が回復したのは、2013年1月、マリの内戦に介入したときだけだった。この時オランドは「テロリストを破壊する」という戦争目的を広言し、フランスはこうして、アフガニスタンとイラクの失敗以降、米英がもはや使わなくなった「対テロリズム戦争」のレトリックに、いわば一周遅れで訴えるようになったのである。
無為に終止したエロー内閣の後を継いだヴァルス内閣は、就任早々ネオリベラリズム路線を鮮明にし、ブルターニュのノートル・ダム・デ・ランド空港建設反対運動など、エコロジー系の地域闘争にとりわけ激しい敵意を向けた。今回の事件後の緊急令によって、空港反対闘争の中心的な活動家3名が居住地指定処分を受け、COP21開催に対する抗議行動に参加するためパリに移動する自由を奪われた。現在のフランスで「テロリスト」という言葉が使われるとき、イスラーム主義的な「聖戦」派だけが狙われているのではない。このタイプの予防弾圧は、今後いっそう深刻になることが予測される。
シリア以前にフランスは、リビア、マリ、中央アフリカと、アフリカでの軍事活動にのめり込んでいた。そして昨年9月、フランス人登山家がアルジェリアのオレス山中で「イスラーム国」を名乗る集団に殺害された後、イラクにおける対「イスラーム国」空爆作戦への参加を決定したのである。しかし、シリアの旧宗主国フランスは、この間一貫してアサド政権の退陣を要求してきたため、シリアの「イスラーム国」支配地域への空爆には及び腰だった。それが今年九月、二万人のシリア人難民受け入れ方針の公表と同時に、難民の「発生源」を叩くという口実で、シリア空爆に踏み切ったのである。この決定について、政府内に意見の不一致があることを見透かされ、今回の事件を招いた可能性は否定できない。
2003年のイラク戦争開戦前夜、フランスが国連を舞台に精力的に展開した戦争反対の意志表示を思い出すなら、10年あまり後にこの国が、なぜここまで来てしまったのか、いくつもの疑問が浮かび上がる。国内では公教育におけるヴェール着用禁止法の制定(2004年)、郊外における若者の叛乱に対する弾圧(2005年)とムスリム系市民への抑圧政策が強化され、中東政策ではサルコジ政権下で親イスラエル路線への転換がなされ(2007年)、2009年、フランスは43年ぶりに北大西洋条約機構(NATO)に復帰する。ただでさえ日常的な差別にさらされ、平均の3倍を超える失業に苦悩するアラブ、アフリカ系の移民やその2世、3世が、いっそう疎外感を深めざるをえない方向に、この国ははっきり舵を切ったのである。2010年代の軍事介入路線は、以上のような内外の一連の政策転換の延長上に出てきたものである。今回の大規模殺戮にどんな政治的目的があったにせよ、フランスの国家および社会の急激な変化がはらむ社会的かつ地政学的な矛盾が、意図的に、鋭く衝かれたことは間違いないだろう。
日本の民衆運動にとって重要な点は、フランスのNATO復帰が、安倍内閣の日本とフランスの、急速な接近の前提となっていることである。従来国連の常任理事国は日本に対し、米英が支持、中ロが反対という構図のなかで、フランスはキャスティングボートを握っていた。フランスのNATO復帰によってこのバランスは崩れ、核兵器保有国にして原発大国のフランスと日本の外交関係は福島原発事故を契機に急速に変質し、いまや国際政治上の重要なパートナーシップを形成しつつある。
日本を訪問したヴァルスは10月3日、安倍に対し、来たるべき国連改革において日本の常任理事国入りを支持すると明言した。旧植民地帝国同士のこの友好関係の深化には、マリ介入の際フランスから自衛隊の派遣要請があったことからも明らかなように、すでに軍事的次元が含まれている。現在のグローバルな帝国主義的軍事再編のなかでは、集団的自衛権の問題を日米関係に限定して捉えるだけでは決定的に不十分である。米国の戦争政策に追随するばかりでなく、独自の帝国主義的利害にもとづいて、国連政治上の実績を積み上げるために自衛隊を戦地に派遣することが、安倍内閣の政治日程には、すでに組み込まれていると考えるべきだろう。
3ヶ月に延長された緊急令に対し、フランスの民衆運動は、「難民歓迎デモ」(11月22日)、「COP21に対抗する人間の鎖」(11月29日)を敢行し、多くの逮捕者を出しながら、力強い抵抗を開始している。私たちもまた、米英仏のシリア空爆に反対し、日本の加担を許さない国際主義の闘いを、緊急に組織する作業に取りかからなければならない。