☆「国会突入」を考えるーー「「跳躍」の運動史」序説 松平耕一

 雨の日がずいぶん多かった気がする。初夏から初秋にかけて、安全保障関連法制定に反対する国会前行動に足繁く参加した。傘を持たない日の夜に、パラパラと降り出す俄雨に閉口した。また、ザアザアの雨の日は、どうせ人も少ないだろうと行動に出向くのが億劫になった。常連の参加者たちは、レインコートの完全装備でデモに行く。今回の一連の行動では、自分も、十代のころ使っていた、埃の被ったポンチョをロフトの奥から引きずりだした。つばのせり出た黒いキャップを被り、ポンチョを重ねた。人が少ない道では傘をさし、混雑した行動の最中ではその折り畳み傘を鞄にしまう。iPhoneとビデオカメラとハンドマイクを濡れないよう、持ち替えやすいように装備する。それにしても、今年の安倍政権は雨に救われたのじゃないかと思ったりした。
 参院本会議でいよいよ強行採決がなされるという、九月一八日の金曜日も雨だった。その夜、翌朝まで抗議するぞという声も聞いたが、私は二二時くらいには国会前を引き上げ、友達と市ヶ谷で飲み屋に入った。自然に六〇年安保の話になる。「六〇年安保の強行採決の日も、雨が降りしきる中での切ない抗議だったらしいよ」と。ビールを何杯か重ねたところで、なんとなく、自分一人だけでも、国会に戻ろうかという気分になった。意外に、裏門とかからなら、国会へと突入できるのではなかろうか? そのまま正門へと突き抜けて帰ってきてしまえばいい。私は、国会内部へと私を招く声が聞こえている気がした。九月一六日に、一三人の逮捕者が出ていたことと関係があるかもしれない。
 門扉というのは一つの境を形成する。門の内部と外部には、別のルールが流れる。門の内外で、別の法に支配されてあるのは不思議なことだ。もしも知らない人が、いきなり扉を開けて私の部屋に上がってきたら、私は仰天するし、怒りにかられるだろう。施設管理権というものが、一般の私有地では働き、外部からの侵入者を、この法をもって排除する。
 しかし、国会の内部とは一体何なのか? 私はそこから排除されていて、一方的な観客にならざるをえない。公的な空間にて、私個人の、生活と人生を左右する議論がルールを守らずに、理不尽で非論理的な方便にてなされているのなら、ちょっと怒鳴り込みに上がりたくなるのも人情であろう。
 私は国会突入をテーマに毎回の国会前行動に参加した。警察の規制線をいかに後退させていくかが私にとっての関心事である。人が多いときに、荒れている場を探す。警察と揉めている人がいる空間では「警察帰れ」「道を開けろ!」「警察おかしいだろ!」「青信号なのに何で歩行者を歩かせないんだ!」「過剰警備反対!」と叫びまくる。参加者が一緒になってコールをしてくれる、手応えのあるときも多かった。
 多くの逮捕者が出た大規模弾圧の起こった、九月一六日は鮮明な印象に残っている。九月第三週は連日、マスコミが押し寄せその人垣が凄かった。三一一以降に始まった脱原発運動が、当初はまったく新聞でもテレビでも報道されなかったことを思えば、隔世の感がある。撮影のためのライトが立ち並び煌々としていた。
 無機質な白い光に照らし出されて、浮かび上がる、警察に激しく押される人々の群れ。蠢き、叫び声。規制線をさげないように守勢にまわっていた権力が、不意に一転して攻勢に出て、私とスクラムを組んでいた一人の人が消えた。あるべきものがなくなった感触が私の身体に残り、私は総毛立った。内部と外部を隔てる頑強な檻が私を飲み込もうとしているのを感じ、怖くなり私はその場を逃げ出した。「仲間を返せ」という叫び声が繰り返された…。一六日の大規模弾圧である。
 一三人の逮捕者というのは、国会前行動では近年では初めての出来事だろう。同種のものとしては、二〇一一年九月一一日の新宿での「原発やめろデモ!」の一二人逮捕事件が思い起こされる。逮捕者が特定セクトの人間に偏ったわけではないという点で、二つの事件には類似性がある。この種の大規模弾圧の起こる状況には条件がありそうだ。一つは、民衆の広範な怒りが激しくたまっていること。もう一つは、警察側が、完全に、何人でも逮捕するつもりで当日の警備にのぞんでその場に出向いてきているということだ。
 関東圏の運動での、三一一以降の大規模弾圧の歴史といったものを考えてみたい。二〇一一年の東京での街頭行動を代表するであろう「原発やめろデモ!」は、六月一一日の新宿デモが成功のモデルケースとしてあった。デモ終了地点である新宿東口駅前広場を占拠状態にし、大変大がかりなお祭り騒ぎをもたらした。これを繰り返そうとしたのが同年九月一一日の「原発やめろデモ!」であったが、絶対に繰り返させまいとした警察側に激しく弾圧されることになった。このデモは、私自身も少し準備を手伝っていたが、警察側とのデモコースについての折衝が難航し、権力が相当な強硬姿勢で警戒にあたっている不穏な感触があった。また、参加者側が、警察側に対して苛々ピリピリしている雰囲気も感じられた。参加者たちのおさまりきらない怒りと、警察の強硬な姿勢から、些細な事実を理由とした激烈な大規模弾圧が生じた。
 同様の状況は、ちょうど四年と少しを経過した、本年の九月第三週の安保法案反対行動においても起こっていたと思う。まず前段として、九月一四日の月曜の行動で、四万五千人と言われる参加者が集まることで、国会前道路の完全解放がなされた。警察車両は運転の途中で、徒歩の参加者たちに遮られて動きを止められたりもしていて、あちこちで車両の上に攀じ登られている始末だった。権力側は警備体制を見直ししたらしく、翌一五日からは断固とした姿勢で警備にあたるようになる。人々が集まり始めるより、ずっと早い時間から警察車両をぎりぎりまで敷き詰め警備をガチガチに固めた。九月一六日は、一四日と同様の規制線の突破を行おうとした参加者たちが、強硬な姿勢の警察に、全面的に弾圧されることになった。
 よく言われることであるが、ラディカルな行動というものは、不意打ちの形でなら成功しやすい。たとえば、九月一六日の新横浜で行われた地方公聴会では、数百人が路上に飛び出し車を遮り横たわるシットイン抗議が行なわれた。暴動状態だったとも言われる行動だったにもかかわらず、逮捕者が出ていない。弾圧にあたったのが神奈川県警だったからということもあるだろうが、権力側は、前例がなく事前に予測できない行動では、逮捕を行ないづらいとも言える。
 路上の解放ということで言うと、二〇一二年、大飯原発再稼働を二日後に控えた六月二九日の官邸前車道の完全決壊が成功のモデルとしてあった。そのことを念頭に置いた上で、一五年の安保法案反対行動では、かなり早い段階から、八月三〇日にたくさんの人を集めて、国会前車道で決壊を起こすことが目標とされていた。六月の段階で、毎週金曜の行動にて、六〇年安保闘争を目標とした数字で、「三〇万分の一になれ」「友達を連れてきて下さい」と繰り返しアナウンスされていた。その成果として三〇日には「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」の発表によれば一二万人が集まり、国会前車道の解放が実現した。この三〇日を過ぎると、主催には少し気が抜けたような雰囲気も見受けられた。安保法案の成立がいよいよ迫った九月一四日は、関係者間でも事前に予測がつかない、平日月曜夜での、不意の車道完全解放が起こった。四万五千人でこれをやってしまったのもすごいことだ。
 今回の行動を振り返るにあたって、首都圏反原発連合について考えてみたい。二〇一二年に官邸前車道を決壊させた立役者である反原連が、「原発やめろデモ」への大規模弾圧の反省のもとに作られた組織であるということはしばしば言及されている。同団体の方針として、夜に騒音を出すことで迷惑になるということでの、二〇時での完全解散や、「官邸突入」を主張するものを弾圧するといった特徴があげられた。運動体内外で揉め事があると適宜警察に通報する。警察と連携を取り合い、「跳ねるやつを潰せ」の原理を持つ。無軌道な大衆の怒りをコントロールし、運動体としての規律を作り出すべく、スターリニズム的な課題を意識することで活動がスタートしている。行動の終了後、ゴミ一つ残さず掃除して帰るという、ファシズム的とも見える感性が誇られることもある。
 反原連については、小熊英二編著『原発を止める人々ー3・11から官邸前まで』(二〇一三年、文藝春秋)が詳しい。本書は二〇一一年から一三年にかけて、脱原発の行動に参加していた五〇人の人々の証言を蒐集していて大変な労作である。現代のデモの特徴を知る上で貴重な資料だ。小熊は反原連の統制的な側面を評価しつつ、「「3・11」以降の脱原発運動は、世界でも類例のない形態を実現させた。それは個々の当事者には見えていなかったかもしれない、多様な動きの連動の結果であり、大きな民意の表現だった。人々はいまだ、その奇跡を奇跡として自覚するほど、みずからの達成に慣れていない。そのことがはらむ可能性の深さに、彼らはまだ気づいていないのである」と手放しに絶賛している。
 本稿を書いている直近での、二〇一五年一一月六日金曜の反原連による官邸前行動は、すでに一七一回目にもなり、約千百人が集まったという。何年にもわたって毎週集まり続ける被災者の方たちの、切羽詰まった、しかしそれでも自身を律し、声を上げ続けることに集中する、狂おしい気持ちには頭が下がる。回数でも規模でも並大抵でない金曜官邸前行動は、もしかしたら、私たちにとって一生の課題になるかもしれず、私が死んだあとでも続き、参加者も増えていくかもしれない。
 しかしどうにも、国会前で数時間、アジ演説を聞き同じコールを繰り返し行ない、これを週毎に繰り返すというのが、個人的には苦役であり参加し難い。小熊の肯定する運動論は、ほとんど「労働としての運動」に見える。祝祭なき、蜂起なき、革命なき、ストイックな忍耐の運動で、「カフェイン抜きのコーヒー」のごときだ。もちろん、反原連のような努力と忍耐の街頭行動者からすれば、不意に入ってきた余所者の「跳ねる奴ら」に場を荒らされるのでは、たまったものではなかろう。しかし「統制」と「跳躍」という軸について考えたとき、小熊の運動史は「「統制」の運動史」といったものだが、私は別に、「「跳躍」の運動史」を提示しておきたいと思う。
 二〇一二年夏の官邸前行動ということで言えば、興味深かったこととして、「ざらすとろ首相官邸前直訴事件」があった。大飯原発がいよいよ再稼働するという当日、とある男性が首相官邸前を訪問した。野田首相に会いに来たので通して欲しい、取り次いで欲しいと、彼を遮る警官に対し、歩道で座り込み交渉を続けた。福島第一原子力発電所四号機は現在極めて危険な状況にあり、その上大飯原発も再稼働してしまうし、野田首相に会えないなら、みんなは死んでしまうしかないかもしれないし、それなら…とアピールし、ナイフを取り出した。そしてその場で、大勢の警察に取り巻かれて、銃刀法違反の容疑で逮捕された。ざらすとろは、彼を通すまいとする警察に対し、「あなたたちはカフカの小説に出てくる門番のようだね」と説得を繰り返していたことが、私には印象深かった。
 もっとも、首相に会わせろ、国会に入れさせろという主張は、礼儀正しく頼めば可能なものなのかもしれない。実際、反原連は、二〇一二年八月二二日に野田首相との面会を行ない、主張の申し入れをしている。また、SEALDsの奥田愛基は九月一五日に参議院特別委員会公聴会に参加し意見を述べている。それらが画期的だとする意見も分からなくはない。だが結果としては、それぞれ、反原発派の意見を聞き入れられたふりをされ、安保法案反対の運動を黙らせられ、代議制民主主義の度量の深さと見せつけられただけではなかろうか。門扉の中に招かれたとしても、「まあまあ」と宥められるためだけの茶番に終わるのなら、やはり恨みつらみが残るであろう。
 私たちは、怒りを抱えて首相官邸の前へ、国会の前へと押し寄せる。そして、門にたたずむ警察に追い返される。もしもそれでも中へ入ろうとしたとき、結果、その門扉が、留置所への、刑務所への門扉と繋がっていることを知るかもしれない。だが、緊張で張り詰め言葉をなくし、怒りを抱えて門扉へと飛び込もうとする跳躍の衝動に、私は「自由」を求める決断を見る。マスコミに取り上げられない、国会にて代表されえない、意識においては忌避されるが、無意識においては望まれるかもしれない衝動に、むしろ「一般意志」と呼びうるものを私は感じる。
 ラディカルへと走る大衆の行動と、自制させ統制しようとする力と、二つの力のせめぎ合いを、三一一以降の運動の中に、私たちは認めることができる。翻って考えてみるに、人間の各個人は、衝動と抑制の二つの相反する要素を相互にあわせもつ。元来、衝動だけの人間も抑制だけの人間もいない。私たちは暴れ出そうとする右手と、それを止めようとする左手を持つ、衝動と抑制の二重体なのである。怒りとともに無意識に「邪王炎殺黒龍波」とかいった名称の必殺技をはなってしまうかもしれない右手があり、同時に、それに手錠をかけておく左手がある。私たちを抑制し日常生活の中に閉じ込めてあるのは、私たち自身だ。
 そしてさらに、個人においてのみならず、組織においても、衝動と抑制の二面性が存在する。つまり、運動史というものを、衝動と抑制、二つの駆け引きのダイナミズムとして綴ることができる。私は本稿において、三一一以降の国会前行動の「跳躍の運動史」を素描し、歴史を概括しつつ、その運動の獲得目標を提案したいのだ。
 二〇一一年以降の関東圏の運動史は衝動と抑制の間で、弁証法的発展を遂げてきている。三一一のあった二〇一一年は、「原発やめろデモ」における「見る前に飛べ」の如きラディカリズムの発露があった。二〇一二年は揺り戻しとして、反原連におけるスターリニズム的な抑制の運動があったが、これも一過的なものだ。逆説的な話だが、国家による弾圧の激しさは、民衆のラディカリズムの度合いを測る鏡ともなる。
 二〇一三年に高潮に達した反ヘイトスピーチ運動では、九月八日にはレイシズムデモに抵抗して新大久保路上でのシットインが行なわれた。シットインはその後もあちこちで繰り返し試みられた。カウンター界隈では、いろいろな手法でぎりぎりのところまで踏み込みレイシズムと対決し、逮捕事件が繰り返し起こっている。また、二〇一三年一二月には秘密保護法強行採決反対行動にて、国会傍聴者の「靴投げ」弾圧事件があった。二〇一四年では、集団的自衛権反対行動の中で、新宿での焼身自殺未遂事件と、日比谷公園での焼身自殺事件が起こった。二〇一五年では、米軍の辺野古基地移設反対を訴えた国会包囲行動が、一月、五月、九月と行われたが、それぞれ八千人、一万二千人、二万二千人と、回を増すごとに参加者が増えた。これらの諸行動には、「抑制」の枠に収まりきらない、大衆のラディカリズムが顕示されていて、フツフツと湧き上がる人々の怒りが見てとれる。二〇一三年、一四年の「衝動」の経験は、二〇一五年八月、九月の安保法案反対行動のラディカリズムへと流れ込んでいる。
 二〇一三年の秘密法反対行動については、一つ附言しておきたい。安倍政権が参議院において秘密保護法案を強行採決したことに際して抗議し、国会内で靴を投げたAさんは起訴をされて、未だに控訴審中だ。秘密法を成立させた審議過程に問題があることを訴え全面的に争っていて、とりわけ国会「突入」性の深い事件である。マスコミによるAさんの扱い方にも大きな問題があり、彼のやったことの意味の重さが慮られる。
 さらにもう一点言うと、Aさん逮捕の日、一二月六日の国会前行動では、二名の逮捕者が出ていた。この日は国会周辺で三万人の参加があり、正門直前にて逮捕者が一名出たのだが、主催はそのことをアナウンスせず誰も騒がなかった。私は現場を見ていたので、その場で「仲間を返せ」とコールしたのだが、乗ってくる人もいない。「特定秘密保護法反対」のコールを無機質に繰り返す、反弾圧意識のない参加者たちと、逮捕事件を知りながらも情報の共有化を行なわない主催の無感覚さはどうかと思った。行動の中で逮捕者が出てもダンマリを決め込むのは、危険だし不審でもある。逮捕者が出たことについて一切言及せず、救援を終えるというのは、この時だけに留まらず、関東圏の行動で繰り返されている。
 以上のことを踏まえてみるに、本年二〇一五年の安保法案反対国会前行動は、以下の点において評価すべきことがあったと思う。第一に救援を巡る対応について。九月一六日の大規模弾圧について、二四日に、主催の総がかり行動が不当逮捕事件を批判するむねの声明を公式に出した。行動の中で、内田雅敏弁護士がスピーチにて声明を読み上げた。反原連周りではまったく行われていなかったことであり、画期的である。また、逮捕者の解放時に主催は、仲間が返ってきましたという旨のツイートをしてもいる。二〇一一年の大規模弾圧に比べれば、救援がスムーズに行われもした。これらは大いに肯定すべきことだと思う。
 評価すべきことの第二のこととして、まとめてあげると、反原連による行動が、二〇時で終わるのに対し、反安保の国会前行動は二二時まで行なわれていたこと。また、前述の通り、「警察帰れ」といったアジテーションが、以前よりは受け入れられやすくなったこと。さらに、鉄柵撤去行動が常態化し普通のことになり、国会前車道の全車線解放を二回も成し遂げたこと。
 第三に、逮捕者への激励行動の参加者の広がりについても言及したい。九一六弾圧逮捕者への、中央署・品川署での激励行動は、彼らを心配する一〇〇名近くの人々が集まった。付け加えて振り返ってみると、九一六弾圧の先駆として、五月二八日に、戦争法案反対国会前集会の参加者三人が、経産省前にて逮捕されるという事件があった。この五二八経産省前弾圧でも、五月二九日の激励行動で、二〇〇名もの人が集まっている。救援の態勢ができていて、周知が即座に拡散できる情報網が整っていて、かつ行動への支持が相当にあるということでなければ、これだけの人を集めるのは難しい。今までの経過から見れば破格な出来事だ。
 今夏の安保法案反対行動の画期的な点を挙げてきた。もちろん、私はすべての衝動を無限定に肯定するわけではない。打算的な話であるが、「跳躍の行動」を試みるなら、救援の態勢のある条件で、世論の支持が集まりうる情勢で、行なった方がいいと思っている。
 個人的には、二〇〇一年に法政大学にて松本哉らが引き起こした「ボアソナードタワー事件」が、とにかくトラウマであった。当時、建設されたばかりだったボアソナードタワーにて、法政の清成忠男総長(当時)と奥島孝康総長(同上)が、大会社の社長を招きシンポジウムを開くという。これに対し、松本ら多数の黒ヘル集団が、シンポの会場に突入して、消化器を振りまきペイントボールを投げ「襲撃」した。結果、彼らのうちの計五人が起訴されている。
 当時の世情を振り返ると、九月一一日にアメリカ同時多発テロ事件があった。その一〇日後の九月二一日に、法政大学では、産学協同路線へと邁進し、大学の就職予備校化を、ネオリベ化を推進しようというセレモニーが行われようとしていた。これを破壊すべく突入を試みるのは、一つのロジックとして正しいとは思う。しかし、世論の支持が得られず、救援の態勢も整わない場での衝動的な行動は、どうにも悲惨な展開をもたらす。ボアソ事件の結果、関東圏のこの世代の黒ヘルは壊滅したとよく言われる。
 同じテリトリーである法政大学学生会館に所属していた私は、この事件に直面して、松本らの側ではなく、「統制」の側につく決断をした。このとき、私は、自分の手で、自分自身に手錠をかけてあることを意識した。以来十年間、私にとって衝動的な跳躍というものは、屈託の対象であった。そのこともあり、私は、半分くらいは、反原連のような統制の効いた行動への支持者である。だが、二〇一一年の三一一を境に、私は、自分で自分にかけた手錠を外すべきだと感じた。私は宗旨替えを行ない、統制と衝動のうち、衝動の側に組することに決めた。
 二〇一一年九月の「原発やめろデモ!」の大規模弾圧では、救援の方針を巡って関係者間で混乱が生じていた。未だに、救援会に関わったものどうしの間での、悪罵のしあいがネットで生じていて、実は現在進行形の問題である。このトラブルは、一つには松本哉の大衆的なキャラクターに起因してもいたと私は思う。松本がかつて引き起こした二〇〇一年九二一のボアソ事件への弾圧に際してもそうだったが、「完黙非転向」が正しいという意識は松本にはなく、救援にあたっての動きに統一性がない。理論を突き詰めるということに興味がなく、雑というか、やる気がないスキゾ的なアナキストの松本は、党を形成するようなパラノ的なタイプではなく、現代的ではあるが、大規模弾圧があると周囲を巻き込み自壊してしまう。反原連は、松本との運動の経験から、警察と適当に関係を作りつつ、絶対に逮捕者を出さない方針を選んだ。
 しかし「跳躍の運動史」にあっては、逮捕事件に際して、完黙非転向と、救援会により不当逮捕弾劾の声明を出すことが重視される。警察に妥協をせず、獄中闘争を続けるのが正しいという見解に理解が得られるよう、努力を続けていきたいところである。
 ともかく、私たちは、二〇一一年の「原発やめろデモ!」で、「言うこと聞くよなやつらじゃないぞ」と歌った。二〇一二年には、大飯原発再稼働反対行動の中で、「ナメられているにもほどがある」と歌った。そして、今回の行動では「本当に止める」がスローガンだった。しかし、その実態はどうか。二〇一二年一二月の第四六回衆院選では自民党が二九四議席を獲得し圧勝、安倍第二次内閣が発足。二〇一四年一二月の衆院選でも、再び与党が議席数の三分の二を維持し、長期政権化が決まった。さらに、安保法案成立後の現在、一時落ち込んでいた内閣支持率は再び上昇してきている。結局「言うことを聞かせられ」「ナメられ」「本当には止められず」に過ごしてきているのが現状ではないのか。
 二〇一四年には台湾で、学生たちによる立法院の占拠があった。彼らが非暴力の行動で、この行動を成し遂げたことは見習うべきことだ。占拠の行動に連携した「全国ロックアウト労働者戦線」という団体は「三つの夢想」というトピックをアピールしていた。いわく、「第一の夢想、もしも国会がなくなれば」「第二の夢想、もしもサービス貿易協定がなくなれば」「第三の夢想、もしも国家がなくなれば」。国会を成立させているものは何なのか、国家を成立させているものは何なのか、今一度問い直す思想は、日本においても必要だ。
 また、拠点に押しかけようとした歴史的事件として、六〇年安保闘争や、戦後の皇居前広場での、血のメーデー事件も参照点とできる。非合法活動時代の共産党や、六〇年安保におけるブントを鏡としつつ、現代の三一一以降の国会前行動において、可能にして効果のある運動体はどんなであるかを検討したいが、またの機会の課題である。
 繰り返すが、今夏のような、世論の支持を集められ、救援の態勢が準備できる情勢では、九一六のような跳躍の行動があっても良かろう。欲を言えば八月三〇日はもっと踏み込んだ行動をする最大のチャンスだったと思う。この日は覚悟のある集団が早い段階で国会正門前横断歩道まで辿り着き、全力で鉄柵の撤去に取り掛かっていれれば、国会議事堂の門扉を開けたはずだ。
 六〇年安保闘争時、人々は、国会の四方の道路を解放し、ジグザグデモでぐるぐると周りながら、構内へと突入しやすい場所を探したという。私たちにおいても、国会正門直前交差点と、国会を取り巻く四方の道路の完全解放もまた目標となるだろう。今夏の状況ではおそらく、蜂起をするにはまだ人数が足りていない。国会正門前南岸のスピーチエリアのアピール力に頼り過ぎてもいた。本来、複数の中心部が必要で、同時多発的に様々な方向から国会へと決起しなければならない。
 もしも今後、原発による放射能被害がさらに広がり、米軍基地が増加し、日本がいよいよ戦争するといった事態が起こるとなったらどうするか。国会へと、首相官邸へと、また別の某場所へと、突入し占拠する思想が必要かもしれない。その思想実験は、日本の民主主義と立憲主義を考えるうえで、もう一つの、オルタナティブな観点をもたらすはずだ。適当な獲得目標を思いつきであげれば、三千人の逮捕者の救援を行えるだけの仲間の形成と、世論の醸成に取り組みたいものである。私たちが自らにかけた手錠を自ら解き放ち、揃って右手を天に突き出し蜂起したとき、門扉は開かれ、天は裂け地が割れ雷が落ち、この世の全ては勦滅し、そして、迷妄の古き神話が終わり、まったく新しい存在史の時代が、始まらないとも限らないであろう。
(『情況』2015年12月号に掲載予定)